Art & Fear という芸術家向けの本の中に,こんなエピソードがある ― ある陶芸クラスでのこと,最初の授業において,教師は生徒をふたつのグループに分けた。一方のグループは作品の「量」によって評価を行うとし,もう一方のグループは作品の「質」によって評価を行うとした。
これはどういうことかというと,「量」グループの生徒たちは,提出した作品の量のみによって評価が下される。作品の総重量が50ポンドに達していたらA評価,40ポンド台ならB評価,というように。それに対して「質」グループの生徒たちは,たったひとつの最高の作品を提出すればいい。その作品の出来に対して評価が下される。
すべての授業が終わり,さて評価は,となったとき,少し奇妙な事実が判明した。提出された作品のうち,最も高い質を持つものは,すべて「量」グループから提出されたものだったのだ。
質を求められていたのは「質」グループのはずだったのに,なぜ質を求められていなかった「量」グループの生徒たちが,質で上回る結果になったんだろう?
理由は恐らく簡単なことで,「量」グループの生徒たちは,多くの作品を作り出す過程において失敗を繰り返し,その失敗から多くのことを学ぶことができた。それに対して「質」グループの生徒たちは,最高の作品を作り出すための理屈立てにばかり時間を費やしてしまい,結果的に質の高い作品を生み出すための技能を身に付けることができなかった。
まあ,当たり前のことと言えば当たり前なんだけどね。多くのことを学ばなくてはならない段階にある人が,まずやるべきことは,とにかく手を動かすことに違いない。でもそんな当たり前のことも,難しい理屈にまみれるうちに見失ってしまうことがある。そんなときには,陶芸クラスのエピソードでも思い出してみるといいよ。質で上回ることができたのは,何をどうした人たちだったんだっけ……ってね。
そのデザイナーに仕事のプロセスを見せてもらった時以来、私は考え方が変わってしまった。「不定型な仕事だから、どれだけ時間がかかるかは分からない」という言い方をしないようになった。そればかりか、他人のそういう発言も、単純には鵜呑みにしないようになった。そして設計や計画やデザインの質が低いのは、時間を費やせなかったせいではないかと疑うようになった。
デザイナー以外にも、不定型な仕事をしている人には何人も出会った。音楽家、映画監督、映像展示プロデューサー、建築家といった、事務作業や力仕事とはほど遠い業務に従事する人たちだ。こうした職種の人たちの多くは、成果物で報酬を得ている。しかし、よく聞いてみると、この人たちもたいてい、仕事に費やす時間や工数をかなり正確に見積もっているのだ。それどころか、報酬額が自分に必要な工数の分に足りないときは、どこを押さえてどこで手を抜けばいいかさえ、ちゃんと計算している。自分の評判を下げない程度に、質をキープする知恵である。いかにもプロフェッショナルである。
最初のうちはアスキーでの仕事が忙しく、断っていたのですが、取材でアメリカの『WIRED』の編集者と親しくなり、同誌にも寄稿を始めました。
驚いたのはアスキーの同僚たちが他誌での記事内容をすごく誉めたことです。本質的にはそれまでアスキーの媒体で書いていたのと同じようなメッセージを伝えているだけなのに、なぜだろう?と。──そして気がついたんです。これが当時のアスキーだけでなく、日本全体に対しても言えることかもしれませんが、日本では組織の中でどんなに頑張っていても、最初のうちは評価されても、だんだんとそれが当たり前になり感謝されなくなり、関心すら持ってもらえなくなると。ところが、一歩、外に出て別の場所で活躍すると、たちまち新鮮な目で見られて「凄い!」となるのです。
日本のアーティストやデザイナーたちが、国内では低く見られているのに、海外などで受賞したとたんに「あの人は凄い!」などと賞賛されるのと似た構図だと思います。
- プロフェッショナルインタビュー:林信行 - LinkedIn navi [リンクトインナビ] (via mcsgsym)
私がハマったのは、ヤマハのレンタルボートで東京湾や隅田川・荒川などをクルーズするというものでして、数人で借りて割り勘にするとガソリン代も入れて1人3,000円くらいしかかかりません。横浜や東京の巨大建築物や橋梁などを海から見ながらクルージングするのは、ゴージャス感もたっぷりなのですが、金額的には趣味一般の中でもかなりつましい部類に入ると思います。日頃、酒やタバコをたしなむわけでもキャバクラに行くわけでもないので、このくらいのお金を趣味に使ってもバチは当たらないですよね、きっと。
とある青年が床屋にやってきました。
床屋はそばにいた子どもをちらっと眺めながら客にこう言いました。
「この子はとてもバカでね、あんまりバカだから良く恵んでやってるんだが、その愚かぶりを見せてあげよう」
そう言うと彼は、1枚の5ルピー硬貨と2枚の1ルピー硬貨を取り出し、その子の前に出して聞きました。
「さあ、どっちが欲しいんだ?」
その子は迷わずに1ルピー硬貨2枚の方を選び、去って行きました。
床屋はそれを見て満足そうに「言った通りだろう?」と客の青年に言いました。
散髪を終えた青年が店を去ると、さっきの子どもがアイスクリーム屋から出てくるのを見つけました。
彼は尋ねてみました。
「ちょっと聞いていいかい?何で君は5ルピーではなく、1ルピー2枚を選んだんだい?」
すると子どもはこう答えました。
「そりゃ5ルピーを取ったその瞬間に、ゲームオーバーだからさ」
- らばQ:愚か者は誰なのか、良くわかるお話
2010-01-07 (via twinleaves, yasunao) (via mitaimon)
18 :名無しさん@コ゛ーコ゛ーコ゛ーコ゛ー!:2012/05/20(日) 18:23:31.36 ID:fxO4dpd20
うちの店が食べログで酷評されていたのに憤慨した常連のおじさんが
捨てアカ取って擁護してくれたのはまだいいとして、
ハンドルに何故かうちの名前の一部を使っており、
どう見てもへたくそなステマにしか見えないので頭を抱える。
ネットリテラシー低い人はホント何をしでかすかわからなくて怖い。
- うちの店が食べログで酷評されていたのに憤慨した常連のおじさん:ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd (via writerman-js)
(出典: msjeng)
「アメリカは、文化財保護のため京都を爆撃しなかった。」
敵国のことを、そこまで考えるアメリカにその部分では好印象を持っていました。
たった 今まで。
しかし、今のその洗脳が解けました。
以下を読んで…
日本の古都はなぜ空襲を免れたか?
http://dewanokuni.hp.infoseek.co.jp/Review27.htm
京都が原爆投下の対象都市であるために空襲を免れたと言う指摘である。これにはショックを受けた。このことについては、原爆開発投下の現場責任者のレス
リー・グローブ少将の資料からも明らかで、京都が原爆の破壊力を内外に誇示しうる威力の測定に必要な市街地の広さを持つ点で格好の都市であるとしている。
つまり、原爆実験の場として空襲による被害を抑え、原爆投下で、その威力の誇示し、正確な効果の測定を行おうとしたわけである。
奈良、鎌倉にしても、文化財保護を考慮して空襲が少なかったのではなく、アメリカが人口、住宅密集地、軍需工場を検討し空襲の順番を決め、たまたま、その
順番がこなないうちに敗戦を迎えたということらしい。ところが、戦後、このような古都が空襲を免れたのは、アメリカが戦時中、日本や中国の文化財を調査し
た委員会(ロバーツ委員会)でのウォーナー博士の尽力の賜物であるという話が流布されることになる。
所謂「ウォーナー伝説」と呼ばれるものである。これによってウォナー博士は古都を守った恩人としてあちこちの銅像がたつことになる。著者の吉田氏はこのことに対しても疑問を寄せている。いやこの疑問から出発したのである。
ロバーツ委員会は文化財リストは作ったがそれを保護するためではなく、略奪したものを返還させるため(特にナチス)と言われている。たまたま、日本の文化
財リストを作ったのがウォーナー博士だったわけである。吉田氏によると、これはアメリカが日本の文化財を守ったというアメリカCIE(民間情報教育局)の
うまみな「ウォーナ賛美」の演出ではなかったのかと見ているようである。
アメリカは3発目の原爆投下8月24日ころ計画していたという。それが陸軍長官の反対を無視して京都投下を温存していた軍人達がおり、京都は空襲禁止の状態が続いていたため、無傷の状態で終わったようである。
WGIP、今も生き続けるGHQの宣伝計画(2)
http://k-mokuson.at.webry.info/200508/article_3.html
戦後の日本にウォーナー恩人説を広めたのは、1945年11月11日の 『朝日新聞』 が
「京都・奈良無疵の裏、作戦国境を越えて、人類の宝を守る、米軍の陰に日本美術通」
といった見出しの記事で、美術研究家矢代幸雄の談話を添えてウォーナーの功績をたたえたことが大きいだろう。
また、さきの新聞記事には
「現在マックァーサー司令部の文教部長たるへンダーソン中佐が日本に進駐してはじめてウォーナー氏の並々ならぬ努力の秘話が伝えられたのである」
と書かれている。 吉田守男氏は、この辺の事情についても詳細に調べて次のよ うに結論した。
戦後日本を占領したアメリカは、軍国主義を否定するとともに親米的な感情を作り出さねばならなかった。
そのために、民間情報教育局(CIE)の対日活動の一環として意図的に作り出されたのがこのウォーナー伝説である、と。
これらから結論出来るのは、
自分が常識と思ってることが、誰かが意図的に
作り出した情報によって操作された可能性があるということです。
つい2,3日前まで、信じてましたからね。
京都を爆撃しなかったのは、アメリカが文化財保護のためにそうしたと。
そして今のその「敵国に対して理性あるアメリカ」という情報操作から
解放されたわけです。
WGIPに関してはサヨクから
「たった7年で洗脳されるわけがない。日本人はそんなにおろかなのか?」
といわれます。
確かにそうかもしれない。
しかし、WGIPは、7年間だけの情報操作というより、
戦後の教育・報道がその7年間に残したものが基盤になり、行われてきた。
60年間それを踏襲し続けた結果、それが常識となってしまった結果だと思います。
私自身が、今まで何も知らずに「太平洋戦争」という言葉を使い、
「文化財保護のために京都を爆撃しなかった」と信じていたということで
それを実感させられました。
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国家の存亡を握る情報戦:WGIPの影響 - livedoor Blog(ブログ) (via carbondoubt)
2010-10-16
(via quote-over100notes-jp)
同じ事をプロレスの前座をやっていた小人人間が言ってた。
その小人人間はプロレスが大好きで
「自分が唯一輝ける場所がリングなのに、人権団体がうるさいから
プロレスが出来なくなった。生き甲斐も仕事も失った。」
と言っていた。
そして
「自分は人前に出てはいけない人間なのか?唯一の認めてくれる場所を失って
死ねというのか?俺たち(小人)は寿命も短いんだ。死ぬ前にもう一度リングに上がりたい」
とも言っていた。
人権団体が一番人権無視をしているんだと思った。
亜鉛はカルシウムと排他の関係だから
両方とるとどっちも吸収されずにムダになる
サプリ併用してるやつは気をつけろ
»231
朝亜鉛、夜カルシウム
みたいに摂取すれば大丈夫?
»233
亜鉛とカルシウムの2種に限定した話だと
朝カルシウムの方が良いよ
カルシウムの代謝調節に必要なビタミンDには日光が必要
»236
けれは良いことを聞いた
朝は牛乳を飲むから、夜は亜鉛のサプリメントを飲むわ
»231
まじかよ
ヨーグルトのあとに亜鉛を飲んでた・・・
»231
マジかよ!マルチミネラル・・・
- 亜鉛の魅力・・・髪が太くなる、ニキビが治る、セーエキ増量、しかしカルシウムといっしょに摂るのはNGだ気をつけろ | ライフハックちゃんねる弐式 (via toronei)
9 :名無しさん@明日があるさ:2010/03/13(土) 15:14:53 0 ID:?
俺は先輩が怖いから失敗しないようにビクビクしながらやってる
自発的に動けなくなった
あの先輩が居なかった時は自分で考えて動けて充実感があった
プレッシャーばかり与える先輩は俺的にガンです
- リーマンは結局人間関係なんだよ!人間関係!もうそれに尽きるわ | ライフハックちゃんねる弐式 (via ibi-s)
君は君の技術を継ぐ者を育てているか?
僕のように、自分の才能だけに頼って生きていないか?
もしそうなら、今からでも誰かを育てなさい。
僕は気づくのが遅かったが、君はまだ間に合う。
後を任せる者がいないと、
いつまでも、
君から才能が去ったあとも、
惨めに「天才」を、演じ続ける羽目になる。
-
『医龍』22/乃木坂太郎・著/小学館2010
2010-01-29
mcsgsym reblogged jinakanishi:
(via tataraseitetsu, tataraseitetsu) (via mago6, mago6) (via skamio, skamio) (via kiri2, kiri2)20代になってから吉本隆明さんに教わったことで、今もお店を続ける上でほぼ毎日のように思い出し、守っている事柄もあります。
もう少しカジュアルな内容ですが、とても大切なことだと思っています。
それは、誰からも批判されない場所で、誰にでも言える内容を、難しい言葉で、自分だけが気付いたような顔をして、話している奴はダメだということです。
内容がどんなに正しくても、それは聞くに値しない、ダメだよ、と吉本さんはおっしゃいました。
聞くに値する言葉は、必ず批判に晒される可能性のある場所で、その人にしか言えない内容を、誰にでもわかる言葉で、誰もが気付いていることを話しているように、発せられているということです。
そんな風に発せられた言葉が必ず正しいという意味じゃない。
くだらないことを言う奴だとか、俺はそう思わねえとか、反論したくなる間違った内容もあるかもしれないけど、少なくとも反論から得るものがある程度には、聞くに値する筈だというのです。
自分はそれを真理だと思い、今も自分のお店をそうあろうと心がけています。
- Narrenschiff:追悼 吉本隆明 (via dannnao)
著作権は今は複製権制御だけれど、クラウド時代にはアクセス制御にシフトするイメージ。別にシンクライアントでなくても、ユーザーのストレージにあるコンテンツへのアクセスを制御できればOK。PC世代が老いる(少数派になる)のって、30~40年程度? もっと短い?
-
いやいやいや、だから10年くらい前からLessig教授はそういう世の中になるんだから気をつけないとダメだよ、と訴え続けているわけで。だからこそのアーキテクチャ論なわけだし。PC世代が老いるのを待つ必要なんてどこにもないので30年もかからない。もしかしたらあと5年もすればそういう世の中になります。技術的な実装方法なんてどうでもよくて、著作権問題は要するに法律論の話なんです。
(via pdl2h)
上述の文章は勢いだけで書いたので意味不明なところが多いはず、なので解説します。自分が著作権関連の話題にコミットしてたのは2001年から2004年あたりまでなので、その当時の知識のままです。creativecommons.orgのBlogも最近はきちんと追いかけていないので状況変わってるとは思いますが、一応メモ。
Lessig教授が1999年に世に問うた”Code: And Other Laws of Cyberspace”には、今では有名になってしまったアーキテクチャという言葉が出てきます。では、東氏や濱野氏が好んで用いるアーキテクチャとは一体どういう言葉として使われたのか。
Lessig教授のインターネットにおける法規制の考え方は、Journal of Legal Studiesの1998年6月号に掲載された”The New Chicago School”という論文がベースになっています。論文はPDFファイルで入手可能です。インターネットにおける法律論を語る上で外せないはずの論文なのですが、邦訳はまだ出ていないようです。
http://www.lessig.org/content/articles/works/LessigNewchicschool.pdf
“The New Chicago School”は訳すと「新シカゴ学派」です。ちなみに経済学におけるシカゴ学派とは全く別のものです。Lessig教授はこの論文で規制の在り方が変容してきていることを論じます。
Lessig教授は制約条件(constraints)は4つあると指摘します(p664)。
1. 法律(Law)
2. 市場(Market)
3. 規範(Norm)
4. アーキテクチャ(Architecture)
細かい内容は割愛して、旧シカゴ学派と新シカゴ学派の違いを書くと
と書いても何のことだかわかりにくいので図で説明。
旧シカゴ学派は中央の◎(規制対象となる主体)にこうやって規制をかけると考えます。

新シカゴ学派は中央の◎(規制対象となる主体)にこうやって規制をかけると考えます。
で、Lessig教授は、「法律が他の3つに介入して間接的に主体に対して規制をかけるようになってしまうから、私たちは法律の作られかたに対してもっと敏感であるべきですよ」と”Code: And Other Laws of Cyberspace”で論じることになります。だから”Code: And Other Laws of Cyberspace”は著作権やインターネットについて語る本であると同時に、民主主義の在り方を論じる本でもあったのです。
ここまで読むと、「あれ、Lessig教授って著作権法やインターネット法律論の専門家じゃなかったの?」と疑問に思う人もいると思います。Lessig教授は、実は最初から著作権法を専門に扱っていたわけでも、インターネットが主な活動領域でもありませんでした。彼の専門は憲法学です。では何故、彼がインターネットにおける著作権法について語る書籍を何冊も出版したのか。それは、インターネットにおいては著作権法が憲法のような扱いになるからでした。表現の自由はその表現が流通することで実現しますが、インターネット上では著作権法の在り方によってその自由が制限されるからです(では、インターネット上ではどのような自由であっても許されるべきなのか、はまた別の問題で、これはSunsteinという人が”Republic.com”という本で取り扱っています)。
で、最初の問題意識のところに戻ります。
Tristan_Tristanさんは「複製権制御」から「アクセス制御」へシフト、という話をしていました。印刷技術による情報流通の世の中から、インターネットが情報流通の主流となる世の中に変わると、「アクセス制御」による情報管理ができるようになる、と。確かにそれはその通りだと思いますが、こと著作権法の観点からみた場合、そして先に図説した新シカゴ学派の考え方に則った場合、技術的な制約条件のありかた(アーキテクチャ)は法律の在り方によってどのようにでも変換することが可能となります。つまり技術的な制約条件がどうであるか、はとどのつまりどうでも良いのです。
私が「技術的な実装方法なんてどうでもよくて、著作権問題は要するに法律論の話なんです」と書いたのは、そういう意味があってのことでした。